大聖勝軍寺
椋樹山大聖勝軍寺と称し、聖徳太子の墓のある叡福寺を上の太子、野中寺を中の太子、勝軍寺を下の太子または太子堂という。聖徳太子が、渋川の阿都の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王をまつって、その加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、ここに一寺を建てて勝軍寺と称したという。聖徳太子の開基とされる。
植髪太子堂の背後の新太子殿には、聖徳太子がみずから刻んだといわれている植髪太子像を安置し、その脇に四天王像をまつり、弓矢をもつ四天王として名高い。これは太子が四大臣をおのおの四天王になぞらえてそのおのおのが頭髪の中に、白膠木(ぬりで)をもって作った四天王像をおいて戦ったことによるものと伝え、右から持国天(蘇我馬子)多聞天(秦川勝)広目天(迹見赤檮)増長天(小野妹子)の四体となっている。天文22年(1553)には、京都の公卿三条西公条(さんじょうにしきんえだ)が、吉野詣での帰途ここに参詣し特に許されて植髪太子を拝した。